FC2ブログ

呉服・和装・印伝 山森呉服店掲示板

お陰様で創業108周年。掲示と社長エッセイ

尾浦城・十五里ケ原古戦場2019.4

IMG_20190413_102235 (2)



主に県内と近県の城・楯跡の訪問と勉強を始めてから、ずっと行きたく思っていた鶴岡市の尾浦城に遂に行ってきた。
戦国時代、主に四人の国人が割拠していた庄内地方。
その四人の中で最も強大だった大宝寺氏(武藤氏とも)の居城である。

もうすぐ鶴岡市大山の城跡に着くという所で看過できないものが目に入り、車から降りた。すると・・・

IMG_20190407_130151 - コピー IMG_20190407_130625 - コピー 首塚とと手引き地蔵

十五里ケ原古戦場の標柱だった。

IMG_20190407_130213 - コピー 四つの盛り上がりが残る首塚

戦国の庄内、四人の国人衆の覇権争いは、紆余曲折の末とうとう上杉と最上の大名間戦争にまで発展した。
天正16年(1588)夏、上杉+越後勢と最上+庄内勢はこの平原で激突、結果、最上勢はこてんぱんにやられた。

元寒河江大江氏重臣で、おとなり中山町の長崎城主だった中山玄蕃朝政。
大江滅亡後は最上の降臣となり、この時まさに尾浦城城代を務めていた。

彼はこの完膚なきまでの大敗戦を恥じ、山形城へすたこら落ちのびることが出来ず、新庄辺りに暫くとどまっていたともいう。
(ここまで何も見ずに書くことが出来た。ほんの少しは勉強が身に付いたか)

まあ十五里ケ原はこれくらいにして、わくわくして憧れの尾浦城を訪れた。
が、結果を先に言うと期待外れだった。

IMG_20190407_131457.jpg

稀有の名城であるはず(個人的には)の尾浦城は完全に公園として整備改変されており、戦国の城郭らしさを感じることが出来なかった。

IMG_20190407_132136 - コピー 切岸加工か こういう場所はふんだんにある城だ

IMG_20190407_133020 - コピー 主郭隅に僅か残る土塁

見事な切岸(多分)は城のあちこちで確認することが出来たが、土塁はただ一カ所で、竪堀は自分が見た限り確認できず、唯一の空堀は後世の大改変の匂いがプンプンした。

IMG_20190407_133320 - コピー 主郭

IMG_20190407_133412 - コピー  主郭と二郭を隔てる大堀切 完全に現代土木が加わっている

IMG_20190407_133715 - コピー  二郭隅 櫓台跡か
 
要するに全体的に「ツルン」となってしまった感じなのだ。
とどめに、これほどの歴史と規模の城跡のどこにも殆ど説明・案内板が無いのだ!

IMG_20190407_140543 - コピー 大山の町

行政や地元住民の、「ここは庄内地方の、戦国期最重要の城跡なのだ」という認識がほとんど感じられない。
公園整備には反対しないけれども、あまりの「城跡無視」ぶりは正直言って残念だった。


  1. 2019/04/10(水) 20:18:56|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

行程古絵図

と言ってもピカピカの復刻版だ。
娘夫婦からの最近のプレゼントである。

IMG_20190330_112019_resized_20190330_113413410.jpg

全長2メートル10数センチある。

IMG_20190330_112055_resized_20190330_113351924 - コピー  IMG_20190330_112241_resized_20190330_113315369 - コピー

因みにわが地方辺りの部分を見てみると・・・

IMG_20190330_112213_resized_20190330_113315831.jpg

時代が違うし行程図だから、ある程度大雑把なのはやむを得ないが、位置関係はちょっとひどい。

上山は松平殿、山形は水野殿、天童は織田殿、長瀞は米津(よねきつ)殿、庄内は酒井殿。
いつも攻めている時代と違ってまた面白い。




  1. 2019/03/30(土) 13:31:51|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

山野辺高楯城2019.3

IMG_20190323_150507_resized_20190323_034947772.jpg

↑東からの主郭部(多分)の眺め。起伏豊富な山辺町の街中と言っていい場所にある。
数年前、この小さな町を歩いて探訪している際、あまりの地形の臭さに頭に焼き付いた丘。
やはり城(楯)跡だった。登ると↓

IMG_20190323_150904_resized_20190323_034912355.jpg

主郭とみて間違いなさそうな所は、今は天満神社。
曲輪(くるわ)らしい畑も連続隣接しているが、いずれにしても小規模な城郭だ。

IMG_20190323_150703_resized_20190323_034948222.jpg

IMG_20190323_150713_resized_20190323_034912967.jpg

↑武田信安築城とある。
数年前、彼の立派な廟所を、ここから数キロ離れた山中で偶然発見して驚いた経験がある。

信安公は甲斐武田氏の流れで、何があったか最上氏を頼って遥かなこの地に来たと聞いている。
その後は代々最上家の家臣として働いたのだろうか。
その子孫高楯遠江守正福は大坂の陣で最上軍として戦い討死、その子俊福は改易となった最上家当主義俊に従って近江へ行ったという。

かつてはこの周囲に多重の堀が巡らされていたというが、今も近くに結構な規模の側溝(川?)が流れており、痕跡だろうか?
いや、それよりこんな小規模な城郭に「惣構え」のような多重の堀など造る必要はあったろうか?

ところで案内板には
「すぐ近くにも山野辺城があったが、なぜ近接の二つが並立したのか」
との疑問が書いてある。

山野辺城は前九年の役で須賀川山辺氏によって築かれたとも伝わる出羽丘陵西端舌状台地に築かれた、高楯城よりずっと大規模な平山城だ。
その後は最上家臣の山野辺氏が、下って慶長6年(関ヶ原の翌年!)には最上義光の四男、山野辺義忠が城主となった。

想像するに、看板にあるような「並立」時期はそう長くなかったのではないか。
この地に軍事的・政治的に本気の拠点を造るなら、信安公や高楯氏の「居館」程度の高楯城で間に合うはずがない。

城・楯は一度造ったらそのまま、というものではない。
隣の山野辺城は、須賀川山辺氏⇒最上家臣山野辺氏⇒大大名最上義光四男義忠と、長い時間を経て大規模な城郭になっていったのではないか。
言い換えれば、大規模に改修していくプランが可能な場所が築城地として選定されたのではないか。

また「小規模すぎて今後は使えない」と、悪く言えば「本城としては捨てられた」高楯城だって、山野辺城成立後も立派な存在意義があったと思う。
「出丸」としての価値だ。


素人城楯愛好家、無学なりに色々考えてみたが、みなさんいかがでしょう。
猪や熊を恐れながらの山城・楯登城だけでなく、近くの町場にもたくさんの址があって楽しい。
また今年もシーズンがやってきた。


  1. 2019/03/23(土) 18:07:34|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

発掘調査速報会

一昨日の日曜、初めて参加した。

IMG_20190319_175705_resized_20190319_055736542.jpg

報告は八件。お一人20分ずつ、八人の担当者が合計3時間超にわたってお話してくれた。
1.山形城(中世)
2.寒河江慈恩寺関連史跡(主に中世)
3.大江町左沢(あてらざわ)楯山城(中世)
4.南陽市長岡南森遺跡(古墳時代)
5.大石田町駒籠楯(古代~中世)
6.鶴岡市藤島城(中世)
7.山形市中野目Ⅱ遺跡(弥生~)
8.山形市川前2遺跡(弥生~)

近年見学に行った1.3.5.6.と、新知識満載の2.は特に興味深かった。

IMG_20190317_145837_resized_20190319_055542485.jpg

山形市民会館小ホール。百数十人の聴衆は、長丁場にも拘らず途中で帰る人は殆どいなかった様子。
皆さんお好きですなー。


  1. 2019/03/19(火) 18:22:40|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

大塚天神古墳

IMG_20190304_070133.jpg

↑山辺町南郊、長谷堂や上山に向かってこの国道を走る度、以前から目が釘付けになる場所がある。
国道のすぐ西側だ。↓

IMG_20190303_112655_resized_20190304_065333598.jpg

田畑の中の神社というだけなら至る所に星の数ほどあるのだが、この神社が乗っている地面の、盛り上がりの高さや形状、規模が気になってしょうがない。
しかし何十年経っても、何百回通っても、寄らなければわからない。
先日、思い切って車から降り、じっくり見学した。

IMG_20190303_111850_resized_20190304_065334477.jpg

IMG_20190303_111834_resized_20190304_065332799.jpg

当たり。元環濠付き円墳だった。(環濠は今は完全に埋まっている)
丁寧な説明の案内板や立派な専用駐車場が、国道からは見えない円墳の西側にあった。

IMG_20190303_112121_resized_20190304_065332272.jpg

図には何条もの発掘調査トレンチ跡(調査終了後は大抵即埋め戻される)が書いてあるが、なぜか肝心の円墳部は掘っていない様子。
専門の先生方の判断に間違いなど無かろうが、何か素人にはわからない、掘らない理由があるのだろうか。
テラス部からでさえ大量の埴輪の破片が出土したのだから、円墳内に石室などの可能性は無いのだろうか。

墳上の天満神社に一礼し、色々考えながら現地を去った。
あー、すっきりした。気になる所には寄るべし、だな。



  1. 2019/03/04(月) 09:03:52|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

訪城記2018.11⑥+α

1.沼の平楯(西川町)  今月11日初訪。
  近くの要害森楯とは本城・支城の関係。こちらが本城。
  城主は東海林隼人之佐(しょうじはやとのすけ)。白鳥十郎長久の与力。後に最上義光の降臣となる。
  主曲輪(本丸)まで行った。大規模ではないが、明瞭に残る二重堀切、土橋、土塁、遺構が素晴らしい。
  登山口さがしに難儀。藪無し。15分で登れる。

IMG_20181111_155545_resized_20181111_070327235.jpg
↑左の主郭土塁に接する二重(W型)空堀。写真ではW感が乏しいが、実際はなかなかのもの。

IMG_20181111_155630_resized_20181111_070237285.jpg
↑二重空堀から土橋を渡り、単純虎口(多分大手)から主郭へ入るところ。

IMG_20181111_155833_resized_20181111_070046126_LI.jpg
↑主郭内部から入ってきた虎口を振り返る。主郭内は見事に削平されている。
 主郭は高さ1Mほどの土塁でがっちり囲まれている。

IMG_20181111_185421_LI.jpg
↑縄張図。赤矢印のように進入した。


2.大江広元公墓所(鎌倉市西御門)  〃18日初訪。城楯ではなく史跡だが。
  広元公は皆さまご存知の通り、寒河江荘初代地頭である。鎌倉幕府の重鎮かつ大功労者。
  頼朝さんから寒河江荘を賜った。その墓所は超有名人頼朝さんの墓の近くだった。
  急な石段を上り詰めたうんと狭い場所に、なぜか島津忠久公、北条義時公と、三窟ぎっしり並んでおり、
  (窟内にどれも五輪塔)島津さんのみ判別できたが、どちらが大江公なのか、北条さんなのかわからずじまい。
  あそこまで行ったのに、とても悔しかった。

IMG_20181120_114053.jpg

IMG_20181118_100310_resized_20181120_060429788.jpg


そして先月9日になるが
3.赤坂見附と弁慶掘(東京都千代田区)
  やはり江戸城は日の本一の城だ。広さと構築物の壮大さに舌を巻く。
  特に見附の石垣の巨大さには息を呑む。東京で過ごした学生時代、私は一体何をしていたのか。

IMG_20181009_073645_resized_20181120_060647744.jpg   IMG_20181009_073242_resized_20181120_060648580.jpg

IMG_20181009_073952_resized_20181120_060646748.jpg

以上。
初雪はここらはまだだが、月山はとうに白くなった。
今年の城楯巡りもそろそろシーズンオフを迎えようとしている。



  1. 2018/11/20(火) 11:28:58|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

訪城記2018.11⑤

11月11日(日)、入間館(いりまたて)で見学も腹ごしらえも済ませると(城楯見学現場で腹ごしらえは初体験)、この日の主目的地に向かう。
同じ西川町の岩根沢地区にある「沼の平楯」(主城)と「要害森楯」(その支城)である。
いずれも初訪。
まずは要害森楯から。

山奥とはいえ、舗装道路から即登り始められるので、アクセスは極上といえる。
登り口に縄張り図の案内板がある。親切だ。

IMG_20181111_185603_resized_20181111_070959047.jpg

かわいい楯のようだ。Cの畝状縦堀が視認できれば面白いが。

IMG_20181111_144005_resized_20181111_070902026.jpg

重機を用い、結構な幅で砕石を撒き、樹脂製の階段兼土留めが設置されている。
こんな親切な山奥の楯跡はまずない。

IMG_20181111_144220_resized_20181111_070809624.jpg

↑主郭目前。桝形虎口は明瞭でなかった。

IMG_20181111_144432_resized_20181111_070606504.jpg

主郭。登り始めてから数分で着いてしまった。楽勝だ。
決して広くはないが、ある程度の居住性は確保できそう。常駐物見台とか兵器庫とか。

IMG_20181111_144459_resized_20181111_070522927.jpg

主郭から北方の眺め。素晴らしく雄大だ。雲の向こうは月山か庄内か。

IMG_20181111_144544_resized_20181111_070523734.jpg

↑主郭から北側の腰郭を見下ろす。
そしてこれ↓が要害森最大の見ものです皆さん!

IMG_20181111_144829_resized_20181111_070444427.jpg

草藪が伸びているとはいえ、長さ10数メートル、深さ2メートルといわれる十数条もの畝状縦堀。
主郭から落差2、3メートルの切岸のすぐ先にこの光景。
攻守とも相手が間近に見え、相当なプレッシャーと想像するが、物理的心理的に物凄いディフェンスである。
これはすごい!

紹介順序が逆になるが、この瞠目すべき楯の主は、この辺の国人領主であり、主城沼の平城々主、
そして彼の白鳥(しろとり)十郎長久の家臣、東海林(しょうじ)隼人佐(はやとのすけ)の弟、東海林昌種とのこと。

行って良かった。さ、続いて3、4キロ離れた主城へ向かう。


  1. 2018/11/15(木) 22:12:04|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

訪城記2018.11④

11月11日(日)。また好天。
お隣西川町の入間(いりま)地区、入間館(たて)を初訪。その全景。↓

IMG_20181111_132311_resized_20181111_071124446.jpg

今は個人宅兼蕎麦屋さんだ。訪問したついでに食べたが、とても美味しかった。

IMG_20181111_132610_resized_20181111_071031919.jpg

立派な門柱の表札を拝見すると、「入間(いりま)」さんとおっしゃるようだ。

IMG_20181111_132515_resized_20181111_071125346.jpg

↑駐車場には「大江寒河江城入間館跡」とのやや微妙な文言が。

さてこの入間館。寒河江大江氏二代目の親廣公が承久の乱で敗れ、宗家を頼って都からこちらに逃れてきたわけだが、
その時に従ってきたきた家臣の一人がここに落ち着き、館主となった佐藤基春といわれている。
そして今ここに住んでおられる方がその末裔とも見聞きしたことがある。

「佐藤」さんがいつ、なぜ「入間(いりま)」さんになったのか、浅学の小生は知らないが、
入間姓の起源を少々調べてみると、その始祖が源頼朝から武蔵国入間(いるま)荘を所領に賜ったからとか。

食後、このお宅様を外から一回り拝見したが、私がいつも見慣れている防御または攻撃用構築物は皆無に見えた。
が、寒河江市史をみると、現状でも堀、石垣、門などが確認できるという。
きっと、無学素人の目ではわからないのだろう。
また、この館の背後の山には、詰め城らしい楯遺構があるのだそうだ。

ともかく、八百年も前に遠方から移住してきた人の子孫が今も同じ所に住んでいるのなら、稀にみる事例なのではないか。
基春さんの主君大江さんは四百数十年前に滅び、滅ぼした最上さんも四百年前に改易となり・・・
もっと言えば、畏くもわが皇室でさえ居は転々とされているのだから。

わが郷土は歴史に満ち溢れている。




  1. 2018/11/14(水) 20:41:53|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

訪城記2018.11③

家から数キロ。寒河江市三泉地区、雲河原(くもがわら)集落と入倉(にゅうぐら)集落の間にある小泉楯跡。
初訪。↓この写真左側、小さな方の林がそれだ。

IMG_20181108_153823_resized_20181110_072108593.jpg

近づいても小さい。↓小さな盛り上がりの上に祠などがある。

IMG_20181108_153141_resized_20181110_072336398.jpg

IMG_20181108_153307_resized_20181110_072159053.jpg  IMG_20181108_153335_resized_20181110_072158219.jpg

楯主の小泉時干(ときゆき)は柴橋楯主の柴橋直干(なおゆき)の子と聞いている。
時干は他の大江氏たちと共に漆川(現大江町本郷)で伊達稙宗(たねむね)軍と戦い、討ち死にしてしまった。
この楯も彼一代で使われなくなってしまったのだろうか。

それにしても地面の盛り上がり部分だけを見ると、小屋がひと棟建つかというくらい面積の小さな「跡」である。
堀跡や土塁なども360度見回しても見当たらない。
だが・・・
この楯跡に隣接する、最初の写真右側の大きな森の方を見ると・・・
休耕地のような所に、廻りよりも高く作られた一筋の小径がある。↓

IMG_20181108_153529_resized_20181110_072109394.jpg

↑そして道の先にはやはり周りの田畑よりも高く、いかにも方形居館のような場所がある。

IMG_20181108_153009_resized_20181110_072337529.jpg

神社だ。直径10mほどの「小泉楯跡」とは比較にならないほど広い。

IMG_20181108_152935_resized_20181110_072432725.jpg

「長者屋敷」との案内板がある。当然、こういう周りも含めての小泉楯だったのではないか。
Here,there,and everywhere. 郷土は、至る所にぎっしりと歴史が詰まっている。







  1. 2018/11/11(日) 20:54:11|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ドームと靖国

11月1日(木)。

IMG_20181101_174243_resized_20181106_083134206.jpg

IMG_20181101_174728_resized_20181106_083134760.jpg

IMG_20181101_162328_resized_20181106_083329489.jpg

ドーム(ポール)三度目。靖国二度目。




  1. 2018/11/08(木) 19:38:40|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

プロフィール

創業大正元年 四代目店主

Author:創業大正元年 四代目店主
呉服・和装・印伝専門店

カテゴリー

バロメーター

最近の記事

最近のコメント

更新カレンダー

03 | 2019/04 | 05
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

まめな削除で