呉服・和装・印伝 山森呉服店掲示板

お陰様で創業106周年。店主エッセイが多いかな。

佐藤構え②

①とは関係ない話。

今日、檀那寺住職から「何か知りたいのならあの人に聞くといい」と聞いていた方に伺い、たくさんのことを教えて頂いた。

私よりずっと目上の、温厚で上品なその方は、昔々本家から我が家と同時に分家したというお宅の当主。
ずっと前から存じ上げていたが、お伺いして親しくお話し頂くのは初めてのこと。

その方は膨大な事実検証と考察を既に済ませておられた。
貴重な資料までいくつか頂き、思い切って伺って本当によかった。

そして一つの大きな謎が解けかかった。
私の5代前(と推測していた)当主が書いた例の古文書、文政13年(1830年)に書いたことになっているが、
それが本当なら彼は満2歳で本を一冊書いたことになる。

これが私の解読以来の最大の謎だった。
しかし「お宅は昔、何代か襲名していたのではないか」とおっしゃるのである。

ならば謎は簡単に解ける。
書物を著したのはX(エックス)代某、郷土史に出てくる色々やった人はX+1代某、ということになる。
なるほどなあ。襲名か。

今日お伺いしたお宅の系図と照らし合わせると、こちらのお宅も我が家も、初代は少なくとも6代以上前と推定できる。
そして途中に大異変が無い限り、お話し下さったご主人と私には、少しは同じ血が流れている可能性がある。

我ながらなぜ今頃。もっと早くお伺いすればよかった。
また、20年も30年も前に我が家の年寄にも根掘り葉掘り聞いて記録しておけばよかった。

このご主人は私の様々な質問の多くに、明解にお答え下さったのである。


(完)





  1. 2015/11/17(火) 22:15:19|
  2. 「家内示談」と豊八考
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佐藤構え①

3年半前に自宅を解体、仮住まいへの引越しの時に発見した、
5代前(と推測している)の当主が著した古文書を発見、解読作業を始めてからだ。

いや、もっとずっと前からだったかもしれない。
大勢いる我が家の先祖たちの中でも、とりわけ地域に貢献し名を成した仏たちにばかり目を向けがちになっていた。

数カ月前、ある他人の方から、
「気持ちはわかりますが、それはちょっと違いませんか」と言われた。

その方は続けて
「代々の当主の方々はもちろんですが、その配偶者たち、兄弟姉妹たち、
あなたのご先祖たちは一人残らず一生懸命に自分の人生を生き抜き、努力して困難を乗り越え、
家族のことに心を砕き、家や田畑や店の維持発展に腐心し、名は成さずとも其々なりの地域貢献はしたはず。
その意味であなたのご先祖はあなたにとって、一人もれなく等しく尊い、敬うべきご先祖なのではないですか」

決してその他の先祖たちを軽視していたわけではないものの、私はぶん殴られ、自分を恥じ、猛省した。
全くその方のおっしゃる通り、先祖に誰一人軽重は無いのだ。


(②につづく)





※かまえ:昔からわが佐藤一族内で「一族」といった語感で使っていますが、全国共通語なのかな?


  1. 2015/11/17(火) 20:59:32|
  2. 「家内示談」と豊八考
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長瀞2015.9

東根市長瀞(ながとろ)城址に行ってきた。これで二度目の訪問となる。
カメラを持って行かなかったので写真は全く無い。

皆様ご存知の通り、長瀞城は平城だ。
現在は完全に長瀞集落と重なっている。

そして地図を見ると一目瞭然のことがある。

長瀞

「二の堀」が今もほぼ完全に残っているのだ。
青く見えているのが「二の堀」。巾10mもありそうな立派なもの。もちろん今も水を湛えている。

で、堀の内側にきれいな「田の字」の道路があるでしょ。
これに添って巾1m前後の「一の堀」も結構残っており、たっぷり確認してきた。

更には「三の堀」もあると言うので見当を付けて行ってみると、わずか1尺程度の、
いわば側溝程度のものではあるがまたごく一部ではあるが確認できた。

驚くべき遺構が寒河江から10数キロの地にあるのだ。
田舎の小集落にこんなはっきりした遺構があるなんて!

まずはじめの城主として西根氏が15世紀に入り、次に最上氏が、最後に米津氏が居住したとのこと。
西根氏も米津(「よねきつ」)氏も初めて聞く名だ。

で、明治に入り戊辰の役で薩長軍がやってきた時に、長瀞城の居館はすべて焼き払われたと。
なんということを。

その後は新政府の下、城内は民間に払い下げられ、現在の長瀞集落ができた。
ご覧の通り、堀の内は民家でびっしりである。

実はここを訪れる直前、東根市北隣の村山市立図書館に行き、長瀞史を少し調べてきた。
色々知り得た。

例えば、「この集落は昔はもっと西(最上川に近く)にあったが、水害の度に東(奥羽山脈に近付く)に移動してここに落ち着いた」とか。

なぜこんなに長瀞に拘るかというと、私の先祖の一人が「長瀞から来た」と、今は亡き祖母から聞いたような記憶があるからだ。
私の聞き違いや勘違いかもしれないし、祖母の間違いかもしれないが。

半面、40年以上前に発行された「寒河江小学校百年の歩み」という本には、
「彼は文政三年(1820年)、寒河江内楯(うちだて:今の市内丸内)に生まれた」と
当時の市史の第一人者A先生が書いておられるのだ。

悩ましい。知りたい。
ひょっとしてご存知ないか、思い切って博識のU先生にお尋ねしてみたいくらいだ。




  1. 2015/09/27(日) 20:19:27|
  2. 「家内示談」と豊八考
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生きる意味(序)

三年前を中心に、ここに我が家の五代前が書いた書物のことを紹介した。
(もしもご興味のある方は、このカテをのバックナンバーをご覧下さい)

今年に入って神仏のお引合せとしか思えないご縁に恵まれ、
お二人目の解読ご協力者(郷土史の大先生)を得、
その先生のお蔭で更に解読が進んだため、現在第二回目の清書と現代語訳を書いている。

江戸から明治にかけて生きた五代前の当主は現代に生きる不信心な私から見ると、
非常に敬虔な仏教(それももちろん我が家の宗派、浄土真宗)信者だったことがわかる。



そんなことをしながら最近よく考えることがある。

(つづく)





  1. 2015/04/20(月) 21:50:17|
  2. 「家内示談」と豊八考
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「家内示談」現代語訳完了

江戸から明治にかけて生きたご先祖、佐藤豊八翁が著した「御家内御示談」。
このゴールデンウイークの発見から半年。
初秋の解読・清書完了から1ヵ月。

この度その現代語訳を書き終えた。
とうとう解読できなかった部分に多大なご指導を頂いた、碩学の書家T氏に改めて御礼申し上げる。

ところで解読も大変だったが、現代語訳にも苦労した。
先祖に対し失礼ではあるが、くどくどしい部分が少なくなく、話し言葉が流れ過ぎて、いわゆる「文章」になっていなかったり、文容を整える必要のある箇所が多かった。

解読作業は当然推測を避け、誤字当て字とわかっても直すことはしなかったが、現代語訳はそれとは少し目的が違う。
意味不明の部分は推測決着もしたし、許容範囲内で現代語訳に適した言葉に置き換えたり、やや強引に文章をつなげたりもした。
そうしなければ私の望む現代語訳は実現できなかったのだ。

そして詳しい序文を付け、あとがきを書き、子に遺す。
先祖の遺著に世話を焼いた私の戯作が、果たしていつまで残るか非常に心許ないが、
子供たちやその先の者たちが、ほんの少しでも我が家の歴史の一部を知る糸口にでもなれば本望。




  1. 2012/11/11(日) 21:37:31|
  2. 「家内示談」と豊八考
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解読・清書完了

この初夏から取り組んだ「家内示談」の解読が完了。
完了といっても判読不可能の文字はたくさんある。

だが、これくらいであきらめないといつまでたってもきりが無い。
きのう、パソコンで清書まで済ませた。

家内示談。そう、5カ月前の引越しの際に発見した、私の5代前の当主が著した書物である。

CIMG7680.jpg

↑ これが解読作業に使った、右に原本写し、左に解読文を手書きした下書きである。約30ページ。
まず私が無学を省みずに作業し、次に数多い未判読文字を書家のT氏に見てもらって潰していく、という手法である。

毛筆による崩し字、癖字、当て字、略字、仏教用語、方言などを、T氏はウルトラC級のテクを駆使し、私がわからなかった所をそうとう解明してくれた。さすがは博識な書家。
それでも100%ではないのだが、もうしょうがない。

CIMG7681.jpg

CIMG7682.jpg

↑ これが清書だ。原本は漢字以外はカタカナなのだが、それをひらがなに直した以外は、どんな場合も原文に忠実に書き、あまりにわかりづらい部分や難しい熟語などには()内に注釈を付けた。




次に現代語訳をしようと思い、このほど手をつけ始めた。
するとあらあら不思議、あれだけ長い解読期間に読めなかった部分が新たにわかるようになって来た。
なんでも経験と時間は重ねるものだ。

また、この段階にきても儒教用語、仏教用語など、電子辞書には相当助けられる。
子孫の私が言うのもなんだが、江戸時代の人間にしては彼は相当碩学のようだ。






①家内示談原本、
②彼の事が記してある「寒河江小学校100年の歩み」、
③市役所からもらってきた戸籍簿、
④たった一枚の彼の写真、
⑤妻の「のん」と二人、庭園の見える座敷に座しているところの掛軸

これらに原文清書と現代語訳を添えてしまっておこうと思う。
子孫らがいつか見ることがあれば、興味をもって読むかもしれない。





  1. 2012/10/04(木) 20:28:15|
  2. 「家内示談」と豊八考
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「家内示談」の謎

最初の10ページは書家にもご指導を依頼し、あとの20ページは独力で挑み、最近解読作業を終えた。
その内その内容についてここに書くことになろうが・・・

先日市役所に行って曾祖父母以前の我が家の戸籍簿を可能な限り、つまり明治政府が戸籍簿というものを作り始めたその時まで遡りもらってきた。

全部で4,500円。痛い。

その結果、初めて知り得た事実も多くあったがそれはおいて、「家内示談」や豊八についての謎が深まってしまった。

表紙

この表紙を拡大すると ↓

20120819212513ccc - コピー

間違いなく「文政13年(1830年)」とある。
左にある「庚寅(かのえとら)」とも干支が一致する。

普通この書き込みはその書を著した時の年号を書くものと信じている。
ところが・・・

戸籍簿によると、豊八は文政11年(1828年)生まれなのである。
満2歳でこの書物を書くか?




私が中学生の頃、寒河江小学校は創立100周年を迎え、それはそれは素晴らしい記念誌、「寒河江小学校100年の歩み」という本を作り、学区民に配布した。
準備といい、編纂組織といい、厚さといい、内容といい、装丁といい、立派な学術書と言える。

その中に記述されている豊八の生年も文政11年だった。
だが、理屈が合わないため、書いて下さった先生には大変失礼ながら、それは誤りであるとずっと考えていた。
だが、戸籍簿まで11年とは!

何なんだ一体。




  1. 2012/09/02(日) 19:51:47|
  2. 「家内示談」と豊八考
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「家内示談」考え直し

全30ページほどの解読作業も終わりに近づいてきました。
しかし・・・
その長さや内容を考えると、これ以上直訳アップを連ねては読者諸兄諸姉たまらないと思うので、

①全編解読完了後に現代口語訳でアップします。

②ご訪問の皆様には大変つまらないと思われるので、尻切れトンボですがこれ以上のアップは取りやめ、ダイジェストや考察のみとします。
 
の二つの内、②を採る事にしました。



  1. 2012/08/31(金) 00:34:13|
  2. 「家内示談」と豊八考
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家内示談④

ではまいります。
本当は時事で書きたいことがあるのだけれど、我慢します。
隣人(隣国)とは世界中のどこよりも仲良くできればいいのだが。




さてまた親様の仰せを(に)背かず。
何を仰せられても「はいはい」と言うて、仰せの通りに致さるべし。

また生き物の命を取り(奪い)、生き物を(に)酷き事必ず(決して)せぬよう、
うり(無理?)を言わぬよう、人の下されぬものを取らぬよう。

人を下に○にせぬよう。
横着なことを言わぬようせぬようにたしなみ、三度のご飯は必ず頂いて、念仏申し申し喰うべし。

新しき着物を着るときは御内仏へ御礼を申し戴いて着るま(べ?)し。
食い物着物にに必ず(決して)好み事を言うべからず。

小さき子供に争わぬよう、余所(よそ)の子供と諍(いさか)いせぬよう、随分随分御法義を大切(に)心がけ、お念仏を申しざるべし。

今の通りに心がけると、親たちもこて(こっち?)の子はよく言うことを聞くと言いて喜び、はしやる(?)人にも笑われて、その身も幸せなり。

必ずこれを忘れぬよう。

さて若い卑中(?)御法義を大切に致さるべし。
蓮如様の御一代○書す。
仏法者申され○。

仏法は若き時嗜(たしな)むべき由に○りとありて、若き時が後生の願うによき時節なり。

身の上もっと自(おの)ずから心配も多くなる。
年寄れば心も疎く、根気も薄く、耳も遠く、行歩も大儀なる。

若き時が誠によき時節なり。
墓を数えてみれば、老人の墓よりは若き者の墓が多いとある。

然れば死ぬる事はいつか知れぬ。
若き時少しも頼みにはならず。





今日はここまで。




  1. 2012/08/27(月) 22:34:57|
  2. 「家内示談」と豊八考
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家内示談③

最後まで続けます。多分あと6回くらい。悪しからず。




御法儀を相続致しながら、遅い速いの違いはあれども一連記生(?)一つ浄土の往生には三世(さんぜ)諸仏の御受け合わさりて、倍を(?)浄土の御慈悲喜ぶも掟を守るも急用の人の事は先(ま)ずおいて、自身の事が肝要なり。

自身に倍○○定みて大切に御慈悲喜ぶ身にさえなれば家内はそれに感心し、その人に願ってその人の喜びを見て○○御法儀に入るようになる。

先ず子共(こども?)、御法義大切に致さるべし。
朝、御内仏(仏壇?)○如来様へ御礼を申すにも○(仮:かりそめ?)のような御礼は勿体ない。

御内仏の如来様は、極楽浄土の阿弥陀如来様の御姿なり。

地獄へ恐ろしき鬼の責め苦に遭う者を御不便(「不憫」ではないか?)に思(おぼ)し召し、お助け下さる如来様なり。

後生(死後の安楽)も願わず、如来様も○来にして大切に聴囁もせぬ者は必ず地獄へ落ちて釜の中に煮られたり、あるいは火の中に焼かれたり、また臼ではたかれたり、色々責めに遭う事なり。

それでも死する事もならずして、いつまでも苦しまねばならぬ。

また後生を願い御法義を大切に喜べば、極楽様へ来らせて下さるるなり。

極楽様までは身に妙服、美しき着物を着、口にはうまき百味の飯食食べさせて下さる。

病というものもなく、死ぬるという事もなり。

婆婆のように暑き事も寒き事も無く、いつまでも楽しみばかりの結構なる処なり。

その浄土様へまいらせて下さるる如来様なれば、御大切に御礼を申し、念仏を唱え御文様(おふみさま:蓮如の説いた教えを書物にしたもの)や御勧化様(?未勉強です)は極楽来たり

有難き事を教えてなれば(おれば?)、御大切に○○○しように。




(今夜はここまで)
平成24年の私が話し、聞く日本語とは少し違い、癖もあるが、少しずつ慣れてきた。
今夜で4分の1くらいまで進んだ。
解読を完了した暁には、誤りを恐れずに現代口語版をまとめてみよう。






  1. 2012/08/23(木) 21:23:36|
  2. 「家内示談」と豊八考
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