呉服・和装・印伝 山森呉服店掲示板

お陰様で創業106周年。店主エッセイが多いかな。

白鳥城址2012.7

去る7月末の晴れた暑い日曜、村山市西郊の白鳥(しろとり)城址を訪れた。

P_20170730_113240 - コピー

わが村山地方は固より、山形県全体にとっても重要な城なのだが、30年ぶりくらいの訪問となった。
前回訪問は20代の頃。城址というものに若干の興味はあったものの、知識は今よりもっと、いや、はっきりいえば皆無だった。

同城址は典型的な山城。
余談だが、当時オフロードバイクが大好きで、「バイク禁止」などという立札も無く、館山の山頂(本丸)まで普通に林道を駆け上がったと記憶している。
今なら犯罪とは言わなくても、顰蹙をかう恐れは十分ある。30年あれば世の常識や習慣は結構変わる。
その時代その時代の常識・良識には従って生きる。

P_20170730_112048 - コピー

P_20170730_112036 - コピー

戸沢中学校跡の広い駐車場がそのまま登山道入り口である。
二日も前に少し雨が降ったか、ややぬかるんだ、しかしゴム長までは要らない道を登った。
道については決して至れり尽くせりの整備とは言えない。15分ほどで山頂に着く。

P_20170730_111947 - コピー

記憶は殆どないのだが、本丸跡は30年前よりずっと整備されてるように感じた。
本丸東側の帯曲輪は視認したが、南西側の大堀切は確認しないでしまった。勿体ない。
さて今回最大の発見(学び)は驚くべきものだった。以下、本丸跡の立看板からアレンジ。

白鳥氏(しろとりうじ)は前九年の役(1051~1062)で、源頼義・義家親子に討たれた安倍頼時の八男安倍行任(あべのゆきとう)が、岩手県胆沢郡白鳥村(後の前沢町、現奥州市?)から逃れて出羽の葉山山麓に潜伏し、白鳥冠者八郎を名乗ったのが始まりと言われる。
後に山下に居館を構えて白鳥(しろとり)郷と名付け、代々白鳥氏(しろとりうじ)と称した。

他にも寒河江大江氏(うじ)や、谷地中条氏(なかじょううじ)の一族だったとの説や、白鳥郷の国人(こくじん:土豪のようなものか)だったなど、諸説あるらしい。

おーまいごっど! 白鳥十郎長久公(白鳥は「しろとり」と読む)は安倍さん末裔の可能性が。
安倍さんと言えば阿弖流為(アテルイ:8世紀に田村麻呂ら朝廷と戦い続けた蝦夷《えみし:非アイヌ》の首長)の精神を受け継ぐものかもしれないと勝手に想像している。

おーまいごっど! その説がもしも本当なら、世の中は狭い。
やはり余談だが、前九年の時代ではないが、わが本家の先祖も藤原滅亡後に平泉から逃れてきたという話もある。

で、16世紀のある時期、山城の白鳥から、なぜか中条氏が支配していた南の平野部谷地城(現河北町谷地)に本拠を移す。
中条氏はどうなったのか、戦は無かったのか、文書が何もないということで、この移動は私にとって大きな謎である。

白鳥十郎長久。
57万石の戦国大大名、山形の最上義光(よしあき)が、父義守と伊達輝宗(政宗の父)の連合軍と諍いの際には仲介をしたり、
義光の息子に自分の娘を嫁がせたり、信長に名馬や鷲を献上して南奥羽の覇者たるパフォーマンスを試みたり、
南出羽の中で考えに考え、動きに動き、結果、出羽最強の義光に脅威と覚えられ、山形城で謀殺されたのは諸賢ご存知の通り。

その1584年には、義光は白鳥の谷地だけでなく、寒河江も天童も一気に攻め滅ぼした。
その意味で私は、1584年は奥羽の「関ケ原(1600年)」のように感じるのである。

で、大坂の陣(1613~14年)と比べたいのが慶長5年(1600年)の出羽合戦(2万ともいわれる直江上杉軍との山形県内での大戦)だ。
山形・最上氏の大勢はその時に決着したように思う。出羽は全国の動きよりも10数年早目早目だったように感じるのだ。

ある程度の文献があるのでわかる、躍動した十郎長久公の一生に想いを馳せる。





  1. 2017/08/28(月) 21:47:50|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

辞煙一年

忘れもしない昨年8月9日は、長年続けた喫煙を辞めた日だった。
あれから一年、ただの一本も吸わずに済んでいる。

勿論、自分の意志の強さを自慢する気など全くない。
歯科医の指摘と我が身(健康)可愛さが辞煙成功原因の全てだ。

加齢もあるが、長年の喫煙習慣が歯周病(歯痛含む)の最たる原因だと。
現にその結果、この正月に大事な奥歯を一本失った。

歯や歯茎が健康な頃の状態に戻ることはなかろうが、
病の進行をせめて遅らせることは出来るかもしれないという一縷の望み故だ。

だから過去何度か失敗した「禁煙」ではなく、自ら吸いたくなくなった「辞煙」と表現したのである。
当然、この一年間は禁煙に付き物の禁断症状とは全く戦わなくて済んだ。

正直に言えば最初の数カ月間は、たまに「あ、今吸ったらうまいだろうな」という気持ちになる瞬間があった。
が、時間の経過とともにその回数は減り、気が付けば半年も過ぎたこの春あたりからは全くなくなった。

昔から人に聞いてはいたが、タバコを辞めることには「医者の脅し」ほど効果的なものはないのかもしれない。

とはいえ、38年間、禁煙時期を控除しても37年間という膨大な喫煙歴に対し、この度吸わないでいたのはただの一年。
もう二度と吸わない、なんてどうして言えようか。
そのことを考えれば「辞煙」ではなく「休煙してます」程度でいいのかもしれない。

それにしてもタバコを吸わないといいことずくめだ。
お客様と応対する時に、自分のタバコ臭さを気にしなくていいし、火の始末も要らない。
家族に文句を言われることも無いし、家も店事務室も車内も全く汚れない。

更にはお金が余って貯まって・・・







  1. 2017/08/10(木) 08:37:12|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

最上小国城址初訪問

四百数十年前、第11代山形城主最上義光(よしあき)の、最上八楯(寒河江・谷地・天童など)攻略に多大な貢献をしたのではないか。
現天童市蔵増(くらぞう)の城主倉津さんは義光さんの覚えめでたく、現最上町の中心、現向町を見下ろす山城、最上小国(おぐに)城主に栄転した、といった話を読んだことがある。
(後記:権威ある先生の書物によると、倉津さんの栄転理由は、八楯攻めではなく細川小国さん攻めとあった)

去る二日、現役パイロットの従弟と共に、同城址の本丸跡(山頂)まで登山してきた。
麓に公民館があり、そこに車をとめた。登山口までゼロメートルである。
そこにはお定まりの案内板があったが、ペンキ書きやスクリーン印刷ではなく、珍しくビニールフィルムに印刷され貼ってあったが、なぜかびりびりに破れてほぼ全失状態だった。
残念。

息が弾まぬようゆっくり登ると、20分もかからず本丸跡に着いた。
今は本丸はじめ、全山が杉林に覆われている山城だが、なかなか良さそうな山頂平だった。
本丸跡を示す木製標柱が一本と、細川殿様(元々のここの城主細川さんの末裔か)隣席の下、数年前に神事が執り行われたことが記されている質素な記念板が一つあるだけだった。

DSC_0865.jpg


いつものように登山道沿いから見渡せる景色だけが我々にとって全てだったのだが、素人でも見事な二重帯曲輪(くるわ)や、なかなか深い空堀を一カ所ずつ視認することができた。
満足して下山し、駐車場に一歩踏み出すと、オニヤンマとトカゲが我々を見送ってくれた。

最上地方の城址巡り、小規模な楯(たて)はまだまだこれからだが、新庄、清水、鮭延、そして小国と、最も訪れたかった所はほぼ踏破できた。
大変幸せである。

次はどこへ行こうか。
あ、最上地方であればまだ一つあった。現鮭川村だろうか、庭月城址がまだだったな。




  1. 2017/08/06(日) 08:52:21|
  2. 店主の部屋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

プロフィール

佐藤達也 四代目店主

Author:佐藤達也 四代目店主
呉服・和装・印伝専門店

カテゴリー

バロメーター

最近の記事

最近のコメント

更新カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

ここの歴史