呉服・和装・印伝 山森呉服店掲示板

お陰様で創業106周年。店主エッセイが多いかな。

長瀞2015.9

東根市長瀞(ながとろ)城址に行ってきた。これで二度目の訪問となる。
カメラを持って行かなかったので写真は全く無い。

皆様ご存知の通り、長瀞城は平城だ。
現在は完全に長瀞集落と重なっている。

そして地図を見ると一目瞭然のことがある。

長瀞

「二の堀」が今もほぼ完全に残っているのだ。
青く見えているのが「二の堀」。巾10mもありそうな立派なもの。もちろん今も水を湛えている。

で、堀の内側にきれいな「田の字」の道路があるでしょ。
これに添って巾1m前後の「一の堀」も結構残っており、たっぷり確認してきた。

更には「三の堀」もあると言うので見当を付けて行ってみると、わずか1尺程度の、
いわば側溝程度のものではあるがまたごく一部ではあるが確認できた。

驚くべき遺構が寒河江から10数キロの地にあるのだ。
田舎の小集落にこんなはっきりした遺構があるなんて!

まずはじめの城主として西根氏が15世紀に入り、次に最上氏が、最後に米津氏が居住したとのこと。
西根氏も米津(「よねきつ」)氏も初めて聞く名だ。

で、明治に入り戊辰の役で薩長軍がやってきた時に、長瀞城の居館はすべて焼き払われたと。
なんということを。

その後は新政府の下、城内は民間に払い下げられ、現在の長瀞集落ができた。
ご覧の通り、堀の内は民家でびっしりである。

実はここを訪れる直前、東根市北隣の村山市立図書館に行き、長瀞史を少し調べてきた。
色々知り得た。

例えば、「この集落は昔はもっと西(最上川に近く)にあったが、水害の度に東(奥羽山脈に近付く)に移動してここに落ち着いた」とか。

なぜこんなに長瀞に拘るかというと、私の先祖の一人が「長瀞から来た」と、今は亡き祖母から聞いたような記憶があるからだ。
私の聞き違いや勘違いかもしれないし、祖母の間違いかもしれないが。

半面、40年以上前に発行された「寒河江小学校百年の歩み」という本には、
「彼は文政三年(1820年)、寒河江内楯(うちだて:今の市内丸内)に生まれた」と
当時の市史の第一人者A先生が書いておられるのだ。

悩ましい。知りたい。
ひょっとしてご存知ないか、思い切って博識のU先生にお尋ねしてみたいくらいだ。




  1. 2015/09/27(日) 20:19:27|
  2. 「家内示談」と豊八考
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<真田への旅 碓氷・軽井沢 | ホーム | 真田への旅 同志>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://kimonoinden.blog43.fc2.com/tb.php/4531-c1ac2090
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

佐藤達也 四代目店主

Author:佐藤達也 四代目店主
呉服・和装・印伝専門店

カテゴリー

バロメーター

最近の記事

最近のコメント

更新カレンダー

03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

ここの歴史